デカルト・フェルマー — 17 世紀科学革命前半
1637 年、 デカルト [方法序説] の付録 [幾何学] が 座標幾何を確立し、 図形を代数方程式で表す道を開いた。 一方、 トゥールーズの裁判官 フェルマー (1607-1665) は 完全なアマチュアとして、 独立に座標幾何を発見、 パスカルと確率論の基礎を築き、 微積分を 30 年先駆け、 そして [算術] の余白に 「真に驚くべき証明を発見したが余白が狭すぎる」 と書き残す。 この一行が 358 年後の 1995 年、 ワイルズによって証明されるまでの 数学史最大のドラマの 出発点となる。
17 世紀の 科学革命 — 前半
前記事 [中世〜近世前期] の フィボナッチ・関孝和以降、 ヨーロッパの数学は 一気に 近代化 する。 その 前半 (1600 年代前半-中盤) の 主役が デカルト (1596-1650) と フェルマー (1607-1665) — 一方は 哲学者・数学者、 もう一方は 裁判官の 「アマチュア」 数学者。
2 人の共通業績が 座標幾何 の 独立発見。 個別業績は フェルマーの 整数論・確率論・光学、 デカルトの 記号代数と 曲線分類。 そして フェルマーが残した 一行の余白書き込みが、 358 年間 数学者を苦しめ、 ワイルズが 1995 年に証明する まで 数学史最大の ドラマ となる。
ルネ・デカルト — 「我思う、 ゆえに我あり」 の 数学者
ルネ・デカルト (René Descartes、 1596-1650) は フランスの 哲学者・数学者・科学者。 「我思う、 ゆえに我あり (Cogito, ergo sum)」 で知られる 近代哲学の祖 だが、 数学史においても 座標幾何学 (解析幾何学) の 創始者 として決定的な役割を果たした。
生涯の要点
- 1596 年 — フランス・トゥレーヌ地方 ラ・エイ (現デカルト市) に誕生。 父ジョアシャンは 法律家・貴族
- 1606-1614 — ラ・フレーシュの イエズス会学院 で学ぶ
- 1616 — ポワティエ大学で 法学を修める
- 1618 — オランダで 軍人ナッサウ公マウリッツに従軍。 数学者イサーク・ベークマンと出会い、 数学・物理に開眼
- 1619 年 11 月 10 日 — ドイツ・ノイブルクで 「驚異の夢」 を見て、 新しい学問の構想を得る
- 1628-1649 — オランダに移住、 20 年以上滞在 し 主要著作を執筆
- 1637 — [方法序説] および付録 [屈折光学][気象学][幾何学] を出版
- 1649 — スウェーデン女王クリスチナの招きで ストックホルムへ
- 1650 年 2 月 11 日 — ストックホルムで 肺炎により死去、 53 歳
スウェーデン女王と 早朝の講義
クリスチナ女王は デカルトに 毎日 早朝 5 時から哲学講義を要求 した。 寒冷地での 未明の通勤と 慣れない生活が祟って 肺炎を発症、 わずか数か月で命を落とした。 「女王のせいで デカルトは死んだ」 と 当時から言われた。 女王への 学術招聘が 死に至るという、 17 世紀ヨーロッパの 一場面。
[幾何学] — 座標幾何の 誕生
[方法序説] の付録として 出版された 全 3 巻の数学論文 [幾何学 (La Géométrie)] (1637) が、 デカルトの 数学的主著:
- 第 1 巻 — 直線のみを使って解ける問題
- 第 2 巻 — 曲線の性質、 曲線の分類
- 第 3 巻 — 高次方程式の解法
座標幾何 — 幾何学の 代数化
デカルトの最大の 数学的革新は、 幾何学の問題を 代数方程式に翻訳する ことであった:
- 平面上に 二本の直交軸 を取る (後に 「デカルト座標」 と呼ばれる)
- 任意の点を (x, y) で表す
- 図形 (直線、 円、 円錐曲線) を 方程式 f(x, y) = 0 で表現
これにより、 古代以来の 「3 つの古典問題」 (立方体倍積・角の三等分・円積問題) のような 幾何学難問も、 代数操作で 解析可能になった。 図形と 方程式が、 同じ言語で 語れるようになった。
記号代数の 整備
デカルトは 現代の代数記法 の整備に大きく貢献:
- 未知数 — アルファベット末尾を 未知数に (x, y, z)
- 既知数 — アルファベット冒頭を 定数に (a, b, c)
- 指数 — 上付き数字 (x², x³)
この記法は 現代までほぼそのまま 使われている。 「x を 未知数として使う」 という 慣習の 起源。
デカルトの 符号則
多項式の 正の実根の個数は、 係数列の 符号変化の回数以下であるという定理 ([幾何学] 第 3 巻)。 例: x³ - 6x² + 11x - 6 = 0 の 係数符号は +, -, +, - で 3 回変化、 正根は最大 3 個 (実際は 1, 2, 3)。
現代の数値計算 でも 有用な、 基本ツールの一つ。
ピエール・ド・フェルマー — 「アマチュア数学者の王」
ピエール・ド・フェルマー (Pierre de Fermat、 1607-1665) は フランスの 法律家・数学者。 本業は トゥールーズの高等法院顧問 (地方裁判官) で、 数学は完全な アマチュア (余技) として行ったが、 その業績は 職業数学者を圧倒 する。
生涯の要点
- 1607 年 8 月頃 — フランス南西部 ボーモン・ド・ロマーニュに誕生。 父ドミニックは 皮革商・領事
- 若年期 — トゥールーズで 法学・古典を学ぶ
- 1631 — オルレアン大学で 法学士。 同年結婚、 トゥールーズ高等法院に勤務開始
- 1631-終生 — トゥールーズ高等法院顧問。 後に 最高位の 刑事部裁判官 に昇進
- 1636 年〜 — パリの メルセンヌ・サークル と書簡交流開始。 デカルト・パスカル・ロベルヴァル・トリチェリらと交信
- 1665 年 1 月 12 日 — トゥールーズ近郊カストルで死去、 57 歳
出版しない 数学者
フェルマーは 大学に席を置かず、 論文も 生前ほとんど出版しなかった。 彼の数学は 主に 手紙と 愛読書の余白の書き込み として残った。
死後、 息子クレマン・サミュエルが 父の遺稿を整理し、 1670 年に ディオファントス [算術] の 注釈付き版を出版。 これにより 「フェルマーの最終定理」 を含む 48 の覚書が公表された。
座標幾何の 独立発見 — 優先権の 問題
デカルトと同時期、 フェルマーも独立に 座標幾何の 着想に到達していた (1636 年頃の手稿 [平面・立体軌跡論への入門])。 両者の方法の 違い:
| デカルト | フェルマー | |
|---|---|---|
| 出発点 | 図形 → 方程式 | 方程式 → 図形 |
| 強調点 | 図形の代数化 | 軌跡の解析 |
| 出版 | 1637 年 | 死後出版 (1679 年) |
公にされたのは デカルト [幾何学] が先のため、 座標幾何の名は デカルトに帰されている。 数学史における 「同時発見と 出版」 の 問題の 好例。
フェルマー原理 — 変分原理の 先駆
「光は 二点間を移動するとき、 所要時間が 最短となる経路を通る」 という原理 (1662 年頃)。 これは 反射・屈折の法則を 統一的に説明する。
後に、 ハミルトン・ヤコビ理論、 変分原理、 量子力学の 経路積分 へとつながる 根源的アイデア。 「自然は 最も効率的な道を選ぶ」 という発想の 数学的定式化。
微積分の 先駆 — 30 年早い 極大・極小法
ニュートン・ライプニッツに 30 年先んじて、 フェルマーは 関数の 極大・極小を求める方法を考案した (1637 年頃):
f(x) と f(x+e) を等しいと 「ほぼ等値 (adequation)」 し、 e で割って e → 0 とする。
これは 現代の微分の原型。 実際、 ニュートンもライプニッツも、 フェルマーの方法を踏まえている。 「微積分の発明者」 争いの、 隠れた第三の候補。
確率論の 創始 — パスカルとの 書簡
1654 年、 貴族ド・メレが提示した 「点数の問題」 (途中で中断したギャンブルの賭金をどう分けるか) について、 フェルマーと パスカル が書簡で議論し、 現代的確率論の基礎 を築いた:
- フェルマーは 場合の数 (組合せ論的方法) で解いた
- パスカルは 期待値 (数学的帰納法的方法) で解いた
これが ホイヘンス [偶然性の計算について] (1657)、 ヤコブ・ベルヌーイ [推測術] (1713)、 ラプラス [確率の解析的理論] (1812) へと発展。 「賭博の問題」 が、 保険・統計・現代金融工学の 出発点となる。
整数論の 業績
フェルマーは 17 世紀の整数論を一人で再興 した。 主要な業績:
フェルマーの小定理
p が素数で a が p で割り切れないなら、 a^(p-1) ≡ 1 (mod p)。 現代の暗号理論 (RSA) の 基礎。
フェルマー素数
F_n = 2^(2^n) + 1 の形の素数。 F_0=3, F_1=5, F_2=17, F_3=257, F_4=65537 までは素数。 F_5 は素数ではないと オイラーが示した (1732)。 フェルマーの予想が 早とちり だった 数少ない例。
無限降下法
「もし解があると仮定すると、 より小さい解が作れ、 無限に降下できるが、 正整数は無限に降下できないので矛盾」 という証明法。 フェルマー自身の発明で、 現代整数論の 基本ツール。
2 平方の定理
4k+1 型の素数は 二平方数の和で 一意に表せる。 フェルマーが主張、 オイラーが証明。
フェルマー最終定理 — 358 年の 宿題
ディオファントス [算術] バシェ版 (1621) の 第 2 巻第 8 問 「正方形を 二つの正方形の和に分けよ」 の余白に、 フェルマーは 次の書き込みを残した:
「立方数を 二つの立方数の和に分けること、 四乗数を 二つの四乗数の和に分けること、 一般に 二乗より大きい冪乗数を 二つの同じ冪乗数の和に分けることは 不可能である。 私はこの命題の 真に驚くべき証明を発見したが、 この余白は狭すぎて それを書ききれない。」
つまり、 n ≥ 3 の整数 n について、 x^n + y^n = z^n を満たす正の整数 x, y, z は存在しない、 という主張。
証明史 — 358 年の 系譜
| 年 | 数学者 | 進展 |
|---|---|---|
| 1637 頃 | フェルマー本人 | 余白に主張 |
| 1670 | 死後出版 | 公表 |
| 1770 頃 | オイラー | n=3 のケース証明 |
| 1825 頃 | ディリクレ、 ルジャンドル | n=5 |
| 1839 | ラメ | n=7 |
| 1847 | クンマー | 「正則素数」 について証明 |
| 1955 | 谷山豊 | 谷山予想 (後のモジュラー定理) |
| 1957 | 志村五郎 | 谷山・志村予想として 精緻化 |
| 1986 | フライ、 リベット | 「最終定理は 谷山・志村予想から導かれる」 を証明 |
| 1993-1995 | アンドリュー・ワイルズ | 谷山・志村予想を証明、 最終定理を解決 |
フェルマー自身は 証明を持っていたか
ほぼゼロ、 と現代の数学史家は結論している。 フェルマー自身が n=4 のケースを 遺稿に残しているが、 一般の n に通用しない方法 であり、 おそらく 早とちり だった。 ワイルズの証明は 楕円曲線・モジュラー形式・ガロア表現 を駆使する 現代的なもので、 フェルマーが知り得たはずもない。
だが フェルマーの 一行の走り書き が、 350 年間 世界中の数学者を 苦しめ、 現代整数論を 大きく発展させた — 数学史最大の 悪戯 となった。
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17 世紀科学革命の 前半、 デカルト・フェルマーによる 座標幾何・確率論・整数論 の誕生を辿った。 次記事では、 その後半 — ニュートン (1643-1727) と ライプニッツ (1646-1716) による 微積分の発明 に入る。 「奇跡の年」 1665-66 のニュートン、 独立に微積分を発見した ライプニッツ、 そして 数学史最大の 優先権論争 — 数学の言語が 現代形へと 完成する 30 年を辿る。