後撰・拾遺集 — 古今から新古今まで 300 年、 和泉式部・能因法師ら平安中期の歌人

古今和歌集 (905 年) の後、 新古今和歌集 (1205 年) までの 300 年、 6 集の勅撰和歌集 (後撰・拾遺・後拾遺・金葉・詞花・千載) が編纂された。 藤原公任『三十六人撰』、 情熱的な恋歌の和泉式部、 旅の歌人 能因法師、 藤原俊成の千載集 — 新古今への橋渡しとなった平安中期の歌人を辿る。

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古今から新古今までの 300 年

『古今和歌集』 (905) から『新古今和歌集』 (1205) までの 300 年間、 6 集の勅撰和歌集 が続けて編纂された:

# 勅撰集 成立年 撰者 特徴
1 古今和歌集 905 紀貫之ら 繊細と技巧の確立
2 後撰和歌集 951 大中臣能宣ら 恋歌の充実
3 拾遺和歌集 1005-1007 藤原公任ら (推定) 華麗と洗練
4 後拾遺和歌集 1086 藤原通俊 和泉式部・能因ら中期歌人
5 金葉和歌集 1127 源俊頼 難解と実験
6 詞花和歌集 1151 藤原顕輔 平明復帰
7 千載和歌集 1188 藤原俊成 幽玄の萌芽
8 新古今和歌集 1205 藤原定家ら 幽玄と余情の頂点

これらは 「八代集 (はちだいしゅう)」 と総称され、 平安-鎌倉初期の和歌の頂点を形成する。 古今 (1) と新古今 (8) が両端の柱、 その間の 6 集は多様な試みの時代。

本記事では、 古今と新古今の間の中間 6 集で活躍した歌人を中心に辿る。

藤原公任と『三十六人撰』

藤原公任 (ふじわらの きんとう、 966-1041) は、 平安中期の代表的な文化人。 『拾遺集』 の主要な編者 (諸説あるが、 中心人物と目される)、 歌論『新撰髄脳』・故実書『和漢朗詠集』 (漢詩と和歌の対比を集めた) の著者。

『三十六人撰 (さんじゅうろくにんせん)』

公任が編纂した歌人選集で、 平安中期の代表的な 36 人の歌人を選び、 それぞれ 3-10 首を掲載した。 選ばれた 36 人は「三十六歌仙 (さんじゅうろっかせん)」 と呼ばれ、 のちの標準的な歌人リストになる。

主な選出者:

  • 紀貫之 (古今集編者)
  • 凡河内躬恒 (古今集編者)
  • 柿本人麻呂 (万葉最大の歌人)
  • 山部赤人 (万葉、 大自然の詩)
  • 在原業平 (六歌仙、 恋の歌人)
  • 小野小町 (六歌仙、 恋の歌人)
  • 僧正遍昭 (六歌仙、 出家の僧)
  • 和泉式部 — 平安中期の恋歌の女性歌人
  • 紫式部 — 『源氏物語』 作者、 歌人としても優れる
  • 清少納言 — 『枕草子』 作者
  • 能因法師 — 旅の歌人
  • 他 25 人

三十六人撰は歌人の格付けを制度化し、 のちの絵画 (三十六歌仙絵) や神社 (三十六歌仙額) の伝統を作った。

公任自身の代表歌 (拾遺集巻 1、 42)

「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」

  • 滝の音は絶えてから久しくなったが、 名は流れ続けて (今も) 聞こえる

大覚寺の古い滝跡を訪れた際の歌。 「音 = 音の流れ」 と「名 = 名の流れ」 の掛詞で、 過去の栄華が言葉として残ることを詠む。 百人一首 55 番

和泉式部 — 情熱的恋歌の女性歌人

和泉式部 (いずみ しきぶ、 生没年不詳、 970s-1030s 活動) は、 平安中期の女性歌人。 三十六歌仙のひとり。 情熱的で率直な恋歌で、 平安女性歌人の最高峰の一人。

生涯 — 恋愛遍歴

  • 和泉守橘道貞 と結婚 (「和泉式部」 の名の由来)
  • 冷泉天皇の第 3 皇子為尊親王 (ためたかしんのう) と恋愛
  • 為尊親王の死後、 弟の敦道親王 (あつみちしんのう) と恋愛
  • 敦道親王の死後、 中宮彰子 (紫式部と同じ) に仕える
  • 藤原保昌 と再婚

これらの恋愛遍歴が 『和泉式部日記』 (自身の作か他人の作か諸説) に描かれる。

代表歌 1: 恋の熱情 (後拾遺集巻 12、 763)

「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」

  • あらざらむ — (私はもう) この世にいないだろう
  • この世のほかの 思ひ出に — この世以外での (=あの世での) 思い出に
  • 今ひとたびの 逢ふこともがな — 今もう一度、 逢うことがあってほしい

死の予感を抱きながら、 恋人にもう一度会いたいと願う歌。 「逢ふこともがな (逢いたい)」 の直接的な希求が、 平安女性の歌としては異例に赤裸々百人一首 56 番

代表歌 2: 蛍と魂 (後拾遺集巻 20、 1162)

「もの思へば 沢の蛍も 我が身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る」

物思いに耽っていると、 沢の蛍も自分の身から抜け出す魂のように見える。 恋の煩悶で魂が身体から離れるという、 平安の「あくがる (魂が抜ける)」 の観念を具体化した名歌。

和泉式部の作風

  • 恋の直接的な希求 — 女性歌人としては異例の率直さ
  • 身体と魂の分離 — あくがる、 消える、 死ぬ、 という主題の頻出
  • 技巧よりも情熱 — 掛詞などの技巧はあるが、 情熱が前面に
  • 知的な貴族女性の情念 — 中宮彰子サロンの一員として教養も豊か

紫式部は『紫式部日記』 の中で和泉式部を 「けしからぬかたこそあれ、 うちとけて文はしり書きたるに、 その方の才ある人、 はかない言葉のにほひも見え侍るめり」 (よろしくない面もあるが、 打ち解けて文を書くと、 才のある人らしい何気ない言葉の匂いも見える) と評した。 やや辛口だが才を認める。

能因法師 — 旅の歌人

能因 (のういん、 988-1050 頃) は、 平安中期の僧侶歌人。 本名橘永愷 (たちばなの ながやす)。 若くして出家し、 陸奥 (東北)・伊予 (四国) など各地を旅して歌を詠んだ、 旅の歌人の始祖的存在

のちに西行 (12 世紀)・宗祇 (15 世紀)・芭蕉 (17 世紀) と続く旅の詩人の系譜の源流。

代表歌 1: 陸奥の旅 (後拾遺集巻 9、 518)

「都をば 霞と共に 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」

  • 都を春霞と共に発ったが
  • (今や) 秋風が吹いている、 白河の関 (陸奥の入口) では

春に京を発って、 秋になって陸奥の白河の関に到着した — という長旅を、 「霞 (春)」 と「秋風」 の対比で凝縮。 百人一首 69 番の候補になったこともある名歌。

代表歌 2: 三室山の紅葉 (後拾遺集巻 5、 366)

「嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり」

嵐が吹く三室山の紅葉葉は、 竜田川の錦だった。 在原業平の「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川」 への呼応で、 業平の派手な竜田川描写を、 より落ち着いた「錦」 として詠み直す。 百人一首 69 番

能因の伝説

能因については以下の伝説がある:

  • 能因歌枕 (のういんうたまくら) — 能因が編纂した歌枕 (歌に詠まれる名所) の辞典
  • 偽装の旅の伝説 — 実は行っていない土地の歌を、 家で作って発表したという疑惑 (根拠は不明)
  • 業平・元真らの影響 — 前世代の歌人の遺蹟を訪ねて詠むスタイルの確立

能因は歌の材料としての「土地」 を確立した歌人で、 これがのちの西行・芭蕉の「歌枕巡り」 の旅に繋がる。

相模 — 女性歌人

相模 (さがみ、 998?-1061?) は、 平安中期の女性歌人。 相模守大江公資の妻 (「相模」 の名の由来)。 三十六歌仙の一人。

代表歌 (後拾遺集巻 14、 815)

「恨みわび 干さぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ」

  • 恨み侘びて (涙で) 乾かない袖でさえあるのに
  • 恋のせいで朽ちる (=悪くなる) 私の名が惜しい

涙で袖を濡らすほどの恋の悲しさよりも、 恋のせいで名声を落とすことを惜しむ、 貴族女性らしい歌。 百人一首 65 番

藤原俊成 — 千載集の編者、 幽玄の萌芽

藤原俊成 (ふじわらの しゅんぜい、 1114-1204) は、 平安末-鎌倉初期の代表歌人。 藤原定家の父。 1188 年、 『千載和歌集』 を撰した。

俊成の重要性は 2 つ:

  1. 「幽玄 (ゆうげん)」 の美学の提唱 — 「表現しきらないで余情を残す」 という新古今の中核美学の萌芽
  2. 定家という後継者を育てた — 藤原定家 (1162-1241) が新古今集の編者となる

代表歌 (千載集巻 17、 1148)

「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」

世の中には (救われる) 道はない。 思い入って (籠もる) 山の奥にも、 鹿が鳴いている。 世俗を逃れた山の奥にも、 悲しみの音 (鹿の声) があるという無常観。 百人一首 83 番

「幽玄」 の思想

俊成は歌論『古来風体抄』 (1197) で、 「歌は心を種として、 詞を花とす」 (貫之の仮名序を引きつつ) と論じ、 特に 「幽玄」 — 表現しきらない、 深く暗い、 余情のある美 — を重視した。

これがのちの定家・後鳥羽上皇の新古今の美学の基盤となる。

藤原公任と定家をつなぐ 200 年

古今集の貫之 (10 世紀) から新古今集の定家 (13 世紀) までの 300 年、 平安中期の藤原公任 (11 世紀)・和泉式部 (11 世紀)・能因法師 (11 世紀)・藤原俊成 (12 世紀後半) らが橋渡し役を務めた。

彼らは:

  • 古今の技巧を継承しつつ
  • 個の情感をより深く掘り下げ (和泉式部)
  • 旅と土地の詩を確立し (能因)
  • 幽玄の美学の萌芽を作り出した (俊成)

これらの成果が、 藤原定家・後鳥羽上皇の新古今和歌集 (1205) で結実する。

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平安末-鎌倉初期、 後鳥羽上皇の勅命で新古今和歌集 (1205) が編纂される。 編者は藤原定家 (1162-1241) を中心とする 5 人。 「幽玄」 「余情」 の美学が頂点に達し、 西行の旅の歌・式子内親王の内省的恋歌・定家自身の抽象的な景が並ぶ。 次記事では新古今集と藤原定家を辿る。

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