闘茶と書院の茶 — 室町前期の 「豪奢な茶」
鎌倉末期から南北朝・室町前期、 武家社会で喫茶が爆発的に流行した。 産地当てゲーム 「闘茶」、 バサラ大名 佐々木道誉の 豪華な賭博、 足利義満の北山文化 (金閣) と 義政の東山文化 (銀閣・同仁斎)、 能阿弥・芸阿弥・相阿弥 の同朋衆による唐物鑑定と 『君台観左右帳記』、 そして 侘び茶への転換点まで、 現代茶道の直接の前身となる 200 年を辿る。
闘茶と 書院の茶 — 侘び茶の 対極
鎌倉末期から 南北朝・室町前期にかけて、 武家社会で 喫茶が 爆発的に流行 した。 その代表が 闘茶 (とうちゃ) — 茶の産地当てゲーム、 そして 書院造の座敷で 唐物を飾って行われた 「書院の茶」 。
これらは 後の侘び茶とは 正反対 の、 豪奢で遊興的な茶 であり、 田楽・連歌と並ぶ 「ばさら」 「数寄」 と呼ばれる文化潮流の一部だった。 バサラ大名と呼ばれた 佐々木道誉 (1296-1373) はその代表で、 莫大な賞品を懸けた闘茶を主催した。
前記事 [茶の起源と伝来] で見た栄西の伝来から 100 年、 茶は 薬から 上流階級の 大掛かりな娯楽 へと変貌していた。
主要用語
- 闘茶 (とうちゃ) — 茶の銘柄・産地を 飲み当てるゲーム
- 本非 (ほんぴ) の茶 — 栂尾の茶を 「本茶」 、 それ以外を 「非茶」 として区別
- 四種十服茶 — 4 種類の茶を 10 回飲んで当てる 典型的な闘茶形式
- 書院の茶 — 書院造の座敷で 唐物を飾り行う茶
- 唐物 (からもの) — 中国・朝鮮渡来の道具、 高価
- 数寄 (すき) — 風流・洗練を好む 趣味人
- 婆娑羅 (ばさら) — 派手で 奔放な美意識
- 会所 (かいしょ) — 邸宅内の 茶や連歌を行う 専用座敷
200 年の 時系列
| 年代 | 主体 | 出来事 | 茶の性格 |
|---|---|---|---|
| 1300 年代前半 | 寺院 | 喫茶習慣広まる | 薬用・修行 |
| 1330 年代 | 公家・武家 | 闘茶流行 | 遊興 |
| 1351 | 佐々木道誉 | 大原野花会 | 豪奢 |
| 1408 | 足利義満 | 北山殿 (金閣) 建立 | 唐物趣味 |
| 1480 頃 | 足利義政 | 東山殿 (銀閣)、 同朋衆 | 書院・床の間成立 |
| 1490 頃 | 村田珠光 | 草庵の茶を始める | 侘び萌芽 |
闘茶 — 産地当てゲーム
闘茶は 中国宋代の 「鬪茶」 が原型で、 本来は 茶の優劣を競うものだった。 日本では 栂尾の茶を 本茶、 他を 非茶 として区別する 「本非の茶」 が 南北朝期に成立し、 これが 四種十服茶 などの形式に発展した。
四種十服茶の 進め方
- 客は 数寄屋に集まり、 まず 利き茶用の茶 (小服) を試飲して 銘柄を覚える
- その後、 本番として 4 種類の茶を 順次出される。 茶碗の底に 銘を書いた 木札を入れて 答えを記す
- 一回で正解は 1 点、 十服で点数を競う
- 高額の賞品 (馬・武具・絹布・金銀) が懸けられた
佐々木道誉と 大原野花会
[太平記] 巻三十三 には 佐々木道誉が 大原野で行った 華麗な闘茶 の様子が描かれており、 唐物名物を 惜しげなく賭けた という。 バサラ大名の 遊興文化の頂点。
書院の茶
足利義政の 東山文化期 (15 世紀後半)、 書院造の座敷 が成立し、 床の間・違い棚・付書院に 唐物を飾って 茶を点てる 「書院の茶」 が確立した。
書院飾りは 同朋衆 (どうぼうしゅう) と呼ばれる 阿弥号を持つ 芸能者によって整えられた:
- 能阿弥 (のうあみ、 1397-1471) — 連歌・水墨画・茶礼に通じ、 書院飾りの基礎を作った
- 芸阿弥 (げいあみ) — 能阿弥の子
- 相阿弥 (そうあみ) — 芸阿弥の子。 [君台観左右帳記 (くんだいかんそうちょうき)] を完成させ、 唐物の格付けを 上中下に分類
三代は 将軍家の 御物奉行 として 唐物の 鑑定・装飾・茶礼を司った。 書院の茶では、 唐物茶碗 (天目)・唐物茶入 (肩衝・茄子)・唐銅花入・墨蹟 (中国禅僧の書) などが 珍重された。
同朋衆 — 時宗僧から 文化官僚へ
同朋衆は 時宗系の遊行僧 が 将軍に仕えたもので、 阿弥号 を名乗った。 身分を超えた 文化的専門職として 独特の位置を占めた。
- 能阿弥 — 連歌・水墨画・茶礼に通じ、 書院飾りの基礎を作った
- 相阿弥 — [君台観左右帳記] を完成、 唐物の格付けを 体系化
同朋衆の仕事は 後に 茶人の役割 へと吸収されていく。 「文化を専門とする 職業」 の 原型がここにある。
北山文化と 東山文化 — 2 つの 対比
北山文化 — 足利義満 (1368-1394)
金閣に象徴される 華麗な唐物趣味。 三代将軍として 日明貿易を再開 し、 唐物が大量に流入した。 派手で 国際的な美意識。
東山文化 — 足利義政 (1449-1473)
銀閣・同仁斎に象徴される、 より内省的な趣味。 書院造の 四畳半 「同仁斎」 (東求堂内) は、 後の茶室の原型 と見なされる。
義政自身は 政治には無能 だったが、 唐物趣味・連歌・茶への耽溺 によって 日本文化の精髄 を生み出した。 応仁の乱 (1467-77) の 動乱の中で、 静けさと洗練を求めた 皮肉な結晶。 「無能な将軍が 生んだ最高の文化」 は 日本史の逆説。
バサラと 数寄 — 2 つの美意識
南北朝期の バサラ大名・佐々木道誉、 土岐頼遠 らは、 既成秩序を無視する 派手な美意識 「婆娑羅」 を体現した。 茶もまた 彼らの遊興の一部であった。
一方、 室町中期以降は 「数寄」 という言葉が定着し、 より洗練された 風流を意味するようになる。 「数寄者 (すきしゃ)」 は 連歌・茶・立花など 複合的な趣味を持つ 文化人を指した。 バサラの派手さが 内へ折り返され、 数寄の 洗練へと変容した。
「同仁斎」 — 茶室の 原型
足利義政が 東山殿 (現在の慈照寺 銀閣) の 東求堂内に設けた 四畳半座敷 「同仁斎」 は、 現存する 最古の書院造座敷の一つ。 付書院・違い棚・押板 の三点セットが揃い、 後の茶室建築の 直接の原型となった。
サイズ、 空間構成、 光の入り方 — すべてが 後の 「茶室」 の 標準となる。 「侘び茶の完成」 以前の、 「書院の茶」 の 完成形。
闘茶から 侘び茶へ — 大きな転換
15 世紀後半、 奈良の 称名寺に庵を結んだ 村田珠光 (1422 頃-1502) は、 書院の 豪奢な茶を批判し、 四畳半の小座敷で 和物を取り合わせる 「草庵の茶」 を始めた。 これが 闘茶・書院の茶から 侘び茶への 転換点 となる。
「豪奢」 から 「簡素」 へ。 「唐物」 から 「和物」 へ。 「賭博と遊興」 から 「心の在り方」 へ。 200 年続いた 茶の性格が、 一気に反転する。
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「派手な茶」 の 200 年を辿った。 次記事では、 その反動として登場した 村田珠光 — 侘び茶の祖 に入る。 一休宗純に参禅し、 「藁屋に名馬を繋ぎたるがよし」 と語り、 四畳半の 小座敷で 和物を取り合わせる、 新しい美学を切り開いた 珠光の 生涯と思想を、 具体的に辿る。