人間探求派 — 中村草田男・加藤楸邨・石田波郷、 花鳥から人間へ
1930 年代後半、 花鳥諷詠の対象を「自然」 から「人間の内面」 へと拡げた 3 人の俳人 — 中村草田男・加藤楸邨・石田波郷 — が「人間探求派」 と呼ばれる潮流を作った。 「降る雪や 明治は遠くなりにけり」 の草田男を軸に、 昭和期の俳句が「人間」 に到達した経緯を辿る。
「人間探求派」 の名称
人間探求派 (にんげんたんきゅうは) という呼び方は、 昭和 14 年 (1939)、 評論家 山本健吉 が 雑誌 『俳句研究』 上で使ったのが最初とされる。 対象となった 3 人:
- 中村草田男 (なかむら くさたお、 1901-1983)
- 加藤楸邨 (かとう しゅうそん、 1905-1993)
- 石田波郷 (いしだ はきょう、 1913-1969)
3 人ともに ホトトギス 系の俳人だったが、 新興俳句の秋桜子・誓子ほど外向的な変革 を主張せず、 むしろ 人間の内面・生きる意味 を俳句のなかに探るスタイルを取った。 花鳥諷詠に留まりつつも、 その花鳥を通して人間の存在 を映すという中間的な位置。
中村草田男 — 「降る雪や 明治は遠くなりにけり」
中村草田男、 本名 清一郎 は、 明治 34 年 (1901) 中国福建省アモイの日本領事館で生まれた (父が領事館員)。 3 歳で日本に帰り、 松山で育つ (子規・虚子・碧梧桐と同郷)。 東京帝大独文科を経て、 東京の中学で長く教師を務めた。
高浜虚子に師事し、 昭和 9 年 (1934) の 『ホトトギス』 に加入。 だが草田男は虚子の花鳥諷詠を、 「花鳥風景を通じて人間の心を映す」 方向に読み替える。
降る雪や 明治は遠くなりにけり (1931)
草田男 30 歳の作。 昭和 6 年、 母校の東京帝大近くを雪の日に歩いていて、 かつて明治期に建てられた古い校舎の前で成立した。
- 降る雪や — 雪が降っている
- 明治は遠く — 明治時代は遠くなった
- なりにけり — なったなあ (詠嘆の「けり」)
1931 年 (昭和 6 年) の時点で「明治は遠くなった」 と詠んだ。 明治 45 年 (1912) の終わりから 19 年、 まだ「明治は遠い」 と言うにはやや近いはず。 だがこの句は、 わずか 19 年で明治が遠くなった、 という時間感覚の急速な変化 を刻んだ。 日本の近代化の速度そのものが句の主題。
「けり」 の切字が余情を残す 見事な結句。 現代の日本人に最もよく暗誦される昭和俳句のひとつ。
万緑の 中や吾子の歯 生え初むる (1939)
草田男 38 歳、 娘 直子の初生歯を詠んだ句。
- 万緑 (ばんりょく) — 一面の緑 (夏の季語、 草田男が確立させた季語)
- 吾子 (あこ) — 私の子
- 歯 生え初むる — 歯が生え始める
「万緑」 という言葉は元々中国古典 (王安石の詩 「万緑叢中紅一点」) にあったが、 日本の俳句の季語としては草田男のこの句が定着させた。 一面の夏の緑のなかで、 幼い娘の小さな真っ白な歯 が生えてくる。 対比の巧み。
蛇死んで大空明るき 忌明かな (1946)
- 蛇死んで — 蛇が死んで
- 大空明るき — 大空が明るい
- 忌明かな — 忌の明ける (誰かの喪明けの)
戦後直後の句。 敗戦の暗さのなかで、 蛇の死と大空の明るさを重ね、 「忌明け」 として日本の敗戦を暗喩している。
中村草田男の俳句観
草田男は生涯を通じて 「俳句は花鳥諷詠を含み、 かつそれを超える」 という立場を取った。 虚子の枠内に留まりつつ、 その内容を深く拡張する。 主張:
「俳句は 17 音の詩である。 詩であるからには、 人間存在の根源を問うものでなければならない」
これは秋桜子・誓子のような明示的な離脱とは違う、 内側からの変革。 草田男は 『ホトトギス』 を離脱せず、 かつ独自の俳句観を貫いた。
弟子筋には 香西照雄・成田千空 ら。 主宰誌は 『萬緑 (ばんりょく)』 (1946 創刊)。
加藤楸邨 — 「隠岐やいま木の芽をかこむ大平洋」
加藤楸邨 (かとう しゅうそん、 1905-1993)、 本名 健雄 (けんゆう) は、 明治 38 年 (1905) 東京生まれ。 東京文理科大学 (現・筑波大学) 卒業後、 埼玉県春日部の旧制中学 (現・県立粕壁高校) 教師。
草田男と同じく虚子門下から始まるが、 昭和 15 年 (1940) に主宰誌 『寒雷 (かんらい)』 を創刊し独立。 楸邨は東洋古典 (特に杜甫) の深い読み込みが特徴で、 俳句のなかに 漢詩的な重厚な内省 を持ち込んだ。
隠岐やいま 木の芽をかこむ 大平洋 (1943)
昭和 18 年、 楸邨 38 歳の作。 島根県隠岐島 (後鳥羽上皇の配流地) を訪れて詠んだ句。
- 隠岐 — 島根県沖の島
- いま — 今
- 木の芽 — 春先の木の芽 (季語)
- かこむ 大平洋 — 大平洋 (太平洋) が (島を) 囲んでいる
隠岐島は太平洋 (実際には日本海だが、 楸邨は「大平洋」 と大書) に囲まれている。 その孤島の春、 木々に芽が吹く。 孤島・古典・季節 が 17 音のなかで重なる。 楸邨の代表句。
鰯雲 人に告ぐべき ことならず (1939)
- 鰯雲 — 秋の雲 (季語)
- 人に告ぐべき — 人に告げるべき
- ことならず — ことではない
秋の空を見上げながら、 「何かを人に告げようとしたが、 それは言葉にすべきことではない」 と気づく。 言葉にできない情感 を、 その「言葉にできなさ」 のまま句にした逆説。
雉子の眸の かうかうとして 売られけり (1940)
- 雉子の眸 (きぎしのめ) — 雉の眼
- かうかうと — きらきらと (擬態語)
- 売られけり — 売られてしまった
市場で売られている雉の眼が、 まだきらきら光っている。 命を失う直前の生き物の眼と、 それを取引する人間の営みの対比。 楸邨の人間観察 の鋭さを示す。
加藤楸邨の俳句観と晩年
楸邨は生涯を通じて 杜甫 を敬愛し、 中国古典の翻訳・研究も行った。 弟子筋には 森澄雄・沢木欣一・金子兜太 らがいて、 特に 金子兜太 は楸邨の弟子筋から出て、 のちに社会性俳句・前衛俳句の中心となる (次記事)。
主宰誌 『寒雷』 は現代まで続く。 楸邨は 1993 年、 88 歳で没した。 晩年まで俳句・古典研究を続けた。
石田波郷 — 病と戦争の内側から
石田波郷 (前記事の新興俳句でも扱った) は、 秋桜子の弟子として新興俳句に参加しつつ、 人間探求派としても位置付けられる二重の存在。 波郷は結核と戦争体験のなかで、 病んだ肉体・破壊された都市・戦後の再建 を俳句に詠み込んだ。
霜柱 俳句は切字 響きけり (1946)
- 霜柱 — 冬の朝の霜柱
- 俳句は切字 — 俳句は切字が命
- 響きけり — (切字が) 響いた
俳句の原理そのものを俳句にした自己言及的な句。 「や」 「かな」 「けり」 の切字が、 冬の霜柱のように冷たく硬く響く — という美学の宣言。
綿虫や そこは屍の 出でゆく門 (1946)
- 綿虫 — 冬の白い綿状の虫 (雪虫、 季語)
- そこは — そこは
- 屍の 出でゆく門 — 死体が運び出される門
戦後直後、 波郷が病院に入院していた時の句。 病院の門から死体が運び出されていくのを、 綿虫の白さと重ねて。 人間探求派の病室俳句 の代表。
3 人の位置付け
| 要素 | 中村草田男 | 加藤楸邨 | 石田波郷 |
|---|---|---|---|
| 生年 | 1901 | 1905 | 1913 |
| 出身系統 | 虚子門下 | 虚子門下 → 独立 | 秋桜子門下 |
| 主宰誌 | 萬緑 (1946-) | 寒雷 (1940-) | 鶴 (1937-) |
| 特徴 | 花鳥から人間へ | 東洋古典と内省 | 都市・病・戦争 |
| 代表句 | 降る雪や | 隠岐やいま | 霜柱 |
3 人ともに 虚子・秋桜子の枠内から出発しつつ、 花鳥諷詠を超えた「人間の内面」 へ到達しよう としたのが共通点。 だが 3 人はそれぞれ違う方向で人間に接近した:
- 草田男: 生活と時代の記憶を通して
- 楸邨: 東洋古典と自然の孤独を通して
- 波郷: 病と戦争の身体を通して
「人間探求」 の意義
人間探求派は、 20 世紀俳句の重要な転換点となった:
- 俳句は自然だけでなく人間を詠める ことを確立した
- 花鳥諷詠と新興俳句の中間 の道を開いた — 過激な離脱でも守旧でもない
- 戦後の俳壇 で、 これら 3 人と弟子筋が主流の一角を占めた
草田男の 『萬緑』、 楸邨の 『寒雷』、 波郷の 『鶴』 は、 いずれも戦後長く続いた総合俳句誌で、 昭和後期の俳壇の骨格を作った。
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人間探求派が「花鳥から人間へ」 と主題を拡げたのに対し、 戦後の 1950 年代には、 もう一歩踏み込んで「社会」 を主題にする 一群が現れる。 中心にいたのが 金子兜太、 埼玉県出身、 楸邨門下、 のちに 『海程』 主宰、 前衛俳句の旗手。 戦時中の南方戦線体験を胸に、 戦後の日本社会そのものを俳句に詠み込もうとした男の 98 年の生涯を、 次の記事で辿る。