アララギ派と斎藤茂吉 — 写生の深化と昭和短歌の中心
1908 年に伊藤左千夫らが創刊した『アララギ』 は、 子規の写生論を深化させ、 20 世紀日本短歌の主流となった。 中心人物 斎藤茂吉 (1882-1953) は精神科医として生き、 『赤光』 (1913)『白桃』 (1942) で写生短歌の頂点を築いた。 島木赤彦・土屋文明・古泉千樫らアララギ派の全体像と、 昭和短歌への影響を辿る。
アララギ派の位置
『アララギ』 は、 明治 41 年 (1908) 10 月、 伊藤左千夫を中心に創刊された短歌雑誌。 正岡子規の根岸短歌会の直接の後継誌として、 子規の写生論を深化・体系化することを使命とした。
20 世紀日本短歌の主流として、 明治末期-昭和後期の約 90 年間、 歌壇の中心的な位置を占めた。 短歌史における影響力は、 20 世紀最大。
「アララギ」 の名は、 万葉集にも詠まれるイチイ (アララギ) の木から。 万葉調復興と直結する命名。
『アララギ』 創刊 (1908)
創刊の経緯
- 1902 年、 子規の死
- 1903-1907 年、 根岸短歌会は「馬酔木 (あしび)」 「阿羅々木 (あららぎ)」 の名前で発行
- 1908 年 10 月、 統合されて 『アララギ』 創刊
- 発行元は伊藤左千夫の牛乳店 (千葉県)、 のち東京へ
主要な創刊メンバー
- 伊藤左千夫 (1864-1913) — 主宰・編集
- 蕨真一郎 — 経営
- 岡麓 (おか ふもと) — 子規の弟子
- 香取秀真 (かとり ほづま) — 鋳金家
- 中村憲吉 (なかむら けんきち、 1889-1934) — のち中心的歌人に
創刊時、 これらは 30-40 代の中堅世代。 若い世代 (斎藤茂吉ら) はまだ加わっていない。
伊藤左千夫の死と体制変更
1913 年 7 月、 伊藤左千夫が 50 歳で急死。 その後、 島木赤彦 (しまき あかひこ) が編集を継承。 このころから若い世代 (斎藤茂吉・古泉千樫・土屋文明ら) が中心的な役割を担うようになる。
斎藤茂吉 — アララギ最大の歌人
斎藤茂吉 (さいとう もきち、 1882-1953) は、 アララギ派の中心歌人。 明治後期-昭和中期の 70 年間に及ぶ活動期間で、 短歌 約 17,900 首、 医学・文学評論も多数残した。
生涯
出自と青年期 (1882-1905)
- 1882 年 5 月 14 日、 山形県南村山郡金瓶村 (現・上山市) の農家の子として誕生
- 本名 守谷茂吉 (もりや もきち)
- 1896 年 (14 歳)、 東京の医師 斎藤紀一の養子となる (斎藤家は精神科医)
- 東京の開成中学 → 一高 → 東京帝国大学医学部へ
精神科医としての職業と短歌 (1905-1917)
- 1905 年、 医大 3 年の頃、 『万葉集』 を読み衝撃を受ける
- 1906 年、 伊藤左千夫を訪問、 短歌の弟子となる
- 1910 年、 医大卒業、 精神科医として東京府立巣鴨病院に勤務
- 1913 年、 恩師左千夫の死、 アララギの中心に
茂吉は生涯を通じて精神科医 (東京都巣鴨病院、 のち青山脳病院院長) として働きながら、 短歌活動を続けた。 「二足のわらじ」 の代表例。
『赤光』 出版 (1913)
明治 46 年 (1913) 10 月、 茂吉 31 歳、 第 1 歌集 『赤光 (しゃっこう)』 を出版。 収録 834 首。 短歌史上の記念碑的な歌集で、 「写生短歌の頂点」 として絶賛された。
母の死と『あらたま』 (1913, 1921)
1913 年 5 月、 茂吉の母いく が郷里山形で死去。 母の死の直前・当日・葬儀・その後を、 茂吉は59 首の連作 「死にたまふ母」 として詠んだ。 これが 『赤光』 の中心、 かつ近代短歌の最高傑作の一つとされる (下述)。
続く第 2 歌集 『あらたま』 (1921) で、 大正期の作品を集成。
ドイツ留学 (1921-1924)
1921 年、 茂吉 39 歳、 ドイツ留学 (ミュンヘン大学・ウィーン大学) で精神医学を学ぶ。 3 年間ヨーロッパで暮らし、 西洋文学・音楽にも触れる。 帰国後の作風は少し変化する (『遠遊』 1928 など)。
青山脳病院と昭和期の活動 (1924-1945)
帰国後、 養父から青山脳病院 (=斎藤家の私立病院) の院長を継承。 医者としての生活が中心となる。 短歌は歌集 『霜』 (1929)・『たかはら』 (1930)・『石泉』 (1932) など連続して出版。
太平洋戦争と 「万葉調国粋主義」 (1937-1945)
昭和 10 年代、 茂吉は戦時下の国粋主義的な短歌も書く。 「万葉調」 が国家主義的な文脈と結びつく側面があり、 茂吉自身も戦争を支持する歌を残した。 これは後世茂吉の負の側面として批判されるが、 同時代の文学者の多くが同様の立場だったことも忘れられない。
1945 年 8 月、 敗戦。 茂吉は山形の郷里に疎開中で、 敗戦後もしばらく郷里に滞在。
晩年 — 『白桃』 と最後の 10 年 (1945-1953)
戦後、 東京に戻った茂吉は歌集 『白き山』 (1949)・『つきかげ』 (1954、 遺歌集) を続けて出版。 死の直前まで作歌を続けた。
1953 年 2 月 25 日、 71 歳で死去。 郷里山形県上山市の斎藤茂吉記念館に、 生涯の資料が保存される。
『赤光』 — 短歌史の記念碑
『赤光』 (1913) は、 茂吉 31 歳の第 1 歌集。 834 首を収録。 タイトルは仏教語「阿弥陀経」 の赤光赤色 (しゃっこう しきしき) から。
「死にたまふ母」 (連作 59 首)
『赤光』 の中心にして最高峰が、 母の死を詠んだ連作 59 首 「死にたまふ母」。 1913 年 5 月、 母いく の危篤を聞いて郷里山形へ帰る茂吉の、 5 日間の旅と看取り・葬儀を詠んだ一連の物語詩。
代表歌 (「死にたまふ母」 より)
「母が目を しまし離れて 蚕 (かひこ) 部屋の隅の あかりに 居りにけるかな」
母の危篤の枕元から、 少し離れて蚕部屋の隅の明かりの下にいた。 母の死の間近さと、 それを直視できない子の距離を、 「蚕部屋の隅」 という具体的な情景で刻む。
「のど赤き 玄鳥 (つばくらめ) ふたつ 屋梁 (はり) にゐて 足乳ねの母は 死にたまふなり」
- のど赤き 玄鳥ふたつ — 喉の赤い燕が二羽
- 屋梁にゐて — 家の梁にいて
- 足乳ねの母 — 母 (=枕詞的な万葉語)
- 死にたまふなり — お亡くなりになる
燕という自然物と、 母の死という決定的な出来事が並置される。 「死にたまふなり」 の現在形が、 死の瞬間を刻む。 近代短歌の最高傑作の一つと評される名歌。
「灯 (ともしび) を 遠き林の 底ふかく 見出でて そこにあゆまむとするも」
葬儀の後、 灯りを遠くの林の底に見つけて、 そこに向かって歩いていこうとする。 喪失感と、 意味のない歩みを刻む。
「みちのくの 母のいのちを 一目見む 一目みむとぞ ただにいそげる」
- みちのくの 母のいのち — 東北 (山形) の母の命
- 一目見む — 一目見よう
- 一目みむとぞ — 一目見ようと
- ただにいそげる — ひたすら急ぐ
危篤の母に会いに、 東京から山形へただただ急ぐ心情。 反復 の 「一目見む 一目みむ」 が、 焦りと必死さを直接に届ける。
「死にたまふ母」 の意義
- 母の死という個の体験を、 59 首の物語として構築
- 具体的な情景と抒情の融合
- 写生の技法を極めて洗練された形で実現
- 近代短歌における「連作」 の可能性を確立
「死にたまふ母」 は現代でも短歌の最高傑作として教科書・アンソロジーに必ず掲載される。
その他の茂吉代表歌
「白桃」 (『白桃』 1942)
「白桃の うすら明るく ならびをり しづかに冬の 日を返しつつ」
白桃の実がうっすらと明るく並んでいる。 静かに冬の日光を返しながら。 物の質感 (うすら明るい) と、 光の反射を微細に描く、 茂吉晩年の写生の頂点。
「最上川」 (『赤光』)
「最上川 逆白波 (さかしらなみ) の 立つまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも」
最上川に逆白波 (=風で波が上流に向かう) が立つほどに、 吹雪の夕方になった。 万葉調の力強い自然描写、 山形出身の茂吉ならではの郷土の景。
「夜半」 (『あらたま』)
「あかあかと 一本の道 とほりたり たまきはる 我が命なりけり」
- あかあかと 一本の道 — 赤々と一本の道 (=夕焼けの中の道か)
- とほりたり — 通っていた
- たまきはる 我が命 — 命 (=万葉の枕詞「たまきはる」 → 「命」)
「我が命」 という直接的な自己言及、 万葉語「たまきはる」 の使用、 一本の道の視覚的なイメージ — 茂吉の作風の完成形。
アララギ派の他の主要歌人
島木赤彦 (しまき あかひこ、 1876-1926)
- 長野県諏訪出身
- 1913-1926 年、 アララギの中心編集者
- 「写生」 の理論化を進めた
- 代表歌: 「みずうみの 氷は解けて なほ寒し 三日月の影 波にうつろふ」 (諏訪湖)
土屋文明 (つちや ぶんめい、 1890-1990)
- 群馬県出身
- 茂吉と並ぶ、 アララギ派のもう一人の柱
- 100 歳まで生きた、 20 世紀短歌の全期間を見た歌人
- 代表歌: 「あかつきの ふすまの中の うつくしさ わがひとつだけの いのちおとろへぬ」 (晩年)
古泉千樫 (こいずみ ちかし、 1886-1927)
- 千葉県出身
- 40 歳で夭折、 アララギの初期の理論的支柱
- 「叙景と抒情の融合」 を主張
中村憲吉 (1889-1934)
- 広島県出身
- 「実相観入 (じっそうかんにゅう)」 の理論を提唱 (下述)
「実相観入」 — アララギの理論的核
アララギ派の理論的核が、 中村憲吉が提唱し、 茂吉・赤彦が発展させた 「実相観入 (じっそうかんにゅう)」 の思想。
意味
- 実相 (じっそう) — 対象の真の姿
- 観入 (かんにゅう) — 見入る、 深く観察する
- 実相観入 — 対象の真の姿を深く観察して詠む
これは子規の単純な「写生」 (見たまま詠む) を発展させた考え。 単に外形を写すのではなく、 対象の内部・本質まで見入って詠む。
具体例
茂吉の 「のど赤き玄鳥ふたつ」 の歌は、 単に燕を見ているのではなく、 「母の死の瞬間に燕を見た」 という個の内部の実相をも含む。 これが「実相観入」 の実践。
アララギの弟子筋 (第 2-3 世代)
アララギは 90 年以上続き、 多くの弟子筋を生んだ:
第 2 世代 (昭和前半)
- 佐藤佐太郎 (さとう さたろう、 1909-1987) — 茂吉直弟子、 端正な写生
- 柴生田稔 (しぼうた みのる、 1904-1991)
- 五味保義 (ごみ やすよし、 1901-1982)
- 山口茂吉 (やまぐち もきち、 1900-1958) — 茂吉と紛らわしい名前だが別人
第 3 世代 (戦後)
- 高安国世 (たかやす くによ、 1913-1984) — アララギから独立
- 島田修二 (しまだ しゅうじ、 1928-2004)
- 上田三四二 (うえだ みよじ、 1923-1989)
アララギの終刊 (1997)
1997 年、 90 年続いた『アララギ』 が終刊。 これは短歌雑誌の世代交代の完了を意味する象徴的な出来事。 現代の主要短歌雑誌は『短歌研究』 『短歌』 『歌壇』 など、 アララギ系ではないものが中心。
アララギ派の意義
1. 20 世紀短歌の主流形成
明治末期から昭和後期まで、 アララギ派は日本短歌の主流。 茂吉・赤彦・文明ら主要歌人を通じて、 現代日本人が持つ 「短歌のイメージ」 はアララギ的なもの (万葉調・写生・素朴で力強い) が中心。
2. 写生の理論的深化
子規の「写生」 を、 「実相観入」 として理論的に深めた。 これは俳句の写生論とも通底し、 近代日本詩形の共通の思想的基盤を作った。
3. 万葉集の再評価の完成
江戸期の賀茂真淵、 明治の子規、 昭和のアララギ派 — 3 世代にわたる万葉集の再評価が、 アララギで完成する。 現代日本人が万葉集を身近に感じるのは、 アララギ派の教育的影響が大きい。
4. 戦時下の暗い側面
茂吉らアララギ派は、 戦時下で国粋主義的な短歌を書いた。 「万葉調 = 日本の心 = 国粋」 という危険な結びつきがあった。 これはアララギ派の光と影の両方。
5. 弟子ネットワークの継承
アララギ派は 90 年間、 弟子ネットワークを通じて短歌の作法を継承した。 これは俳句の「主宰誌」 制度と共通の日本詩形の継承装置。
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戦後、 昭和 20-30 年代、 アララギ派の保守的な写生短歌への反発として、 前衛短歌の運動が起きる。 塚本邦雄 (1920-2005)・寺山修司 (1935-1983)・岡井隆 (1928-2020) が中心。 難解・実験的・都市的な短歌で、 現代短歌への転換点を築いた。 次記事では前衛短歌を辿る。