菱川師宣 — 一枚絵としての浮世絵の確立

17 世紀後半、 江戸に登場した菱川師宣 (1618?-1694) は、 屏風絵から版画へ、 挿絵本から一枚絵へと媒体を変えることで、 浮世絵を 「量産できる庶民の絵」 として確立した。 房州出身の縫箔師の子から江戸最大の絵本作者へと駆け上がった生涯と、 代表作 《見返り美人図》 の意味を辿る。

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「浮世絵師」 の名を最初に名乗った男

菱川師宣 (ひしかわ もろのぶ、 1618 頃-1694) は、 浮世絵の歴史で最初に 「大和絵師 (やまとえし)」 「浮世絵師」 と自称した絵師。 前記事で扱った岩佐又兵衛が「浮世絵の祖」 と後世に位置付けられたのに対し、 師宣は同時代に自らを「浮世を描く者」 として意識化した点で決定的に新しい。

生涯に 150 種以上の絵本・絵草紙、 数千点の一枚絵を残したとされ、 江戸中期の出版市場を独占した。 現代で言えば大手出版社の看板作家に相当する。

生い立ち — 房州の縫箔師の子

  • 1618 年頃、 安房国保田 (現・千葉県鋸南町) の縫箔師 (ぬいはくし) の家に生まれる
  • 縫箔とは着物に金糸・刺繍・箔押しを施す職人技。 幼少期から装飾的な絵柄の設計を身につけていた
  • 20 代で江戸に出て、 狩野派・土佐派の技法を独学で吸収
  • 1660 年代、 江戸で絵草紙・挿絵本の挿絵師として活動を始める

縫箔師出身であることは重要で、 師宣の絵の衣装の描き込みの緻密さ文様の設計感覚は、 明らかに実家の職業から来ている。

決定的だった 2 つの発明

師宣が浮世絵史で決定的な役割を果たしたのは、 次の 2 点。

1. 屏風絵 → 版画への転換

それまで風俗画は肉筆の屏風絵として大名・豪商が発注する一点物だった。 師宣はこれを 木版印刷で量産できる形に持ち込んだ。 版元 (=出版元) が資本を出し、 版下絵・彫り・摺りを分業化することで、 一枚数十文 (現代の数百円相当) で庶民が買える価格が実現する。

2. 一枚絵 (いちまいえ) の確立

それまでの浮世絵的な作品は挿絵本の中に閉じ込められていた。 師宣は 本から独立させた「一枚絵」 を市場に投入する。 これで:

  • 鑑賞・所有・贈答の対象になる
  • 飾ることができる (壁・襖に貼る、 屏風に貼り込む)
  • 主題ごとに単発で買える

この 2 つの発明で、 浮世絵は 「大衆向けの視覚メディア」 として立ち上がった。 現代の写真・ポスター・グッズ・シールに至るまで、 印刷ヴィジュアル文化の原点が師宣にある。

《見返り美人図》 — 実は肉筆画

師宣の代表作として最も有名な 《見返り美人図》 は、 実は版画ではなく肉筆画 (1690 年代、 東京国立博物館蔵)。 縦 63cm ほどの絹本着色で、 遊女風の女性が振り向いた瞬間を切り取った構図。

この作品が近代以降「師宣の代表作」 とされてきたのは:

  • 単独人物を大きく描く構図の斬新さ (背景がほぼ空白)
  • 振り返る一瞬の動きを捉えた抒情性
  • 1948 年、 日本初の切手図案の題材に選ばれたことによる国民的な知名度

版画の方が量産・普及したにもかかわらず、 「見返り美人」 が代表作扱いされるのは、 20 世紀の受容史の産物でもある。

版本 — 江戸の出版市場を独占

師宣の版本 (=印刷された絵本・挿絵本) の代表例:

  • 《武家百人一首》 (1672) — 武家の教養書
  • 《大和絵つくし》 (1680) — 名所と風俗の総覧
  • 《吉原恋の道引》 (1678) — 吉原ガイドブック
  • 《月次のあそび》 (1681) — 江戸の年中行事
  • 《美人絵尽》 (1683) — 女性風俗の集成

これらは全て 墨摺絵 (すみずりえ)、 つまり黒一色の版画。 部分的に朱・緑・黄を筆で塗った 筆彩 が加わることもあった。 完全多色刷りの錦絵 (次記事で扱う春信) はまだ 80 年後。

師宣の弟子筋と江戸絵師の系譜

師宣の工房からは多くの後継者が育つ:

  • 菱川師房 (もろふさ) — 実子、 版本を継承
  • 杉村治兵衛 (すぎむら じへえ) — 独立した町絵師
  • 鳥居清元 (きよもと) — のちの鳥居派の祖 (次記事で扱う)

とくに鳥居派へと繋がる系譜は、 役者絵という浮世絵最大のジャンルを開いていく点で決定的。

京の西川祐信 — もう一つの源流

同時期、 京都では 西川祐信 (にしかわ すけのぶ、 1671-1750) が肉筆美人画・絵本挿絵で名を成した。 師宣の江戸系が 量産と一枚絵を志向したのに対し、 祐信の京都系は 肉筆の精緻さ・古典的な優雅さを保持した。

この 江戸 (師宣系) と 京都 (祐信系) の 2 大源流が、 のちの 18 世紀半ばに江戸で合流し、 鈴木春信の錦絵を生む土壌となる。

死去と後世への影響

  • 1694 年 (元禄 7 年)、 76 歳前後で死去
  • 墓所は江戸浅草の東陽寺
  • 死後、 弟子筋の版本は数十年に渡り再版され続ける
  • 江戸中期に 「浮世絵といえば師宣」 という認識が定着

現代の視点で師宣を位置付けるならば、 「浮世絵を美術品ではなくメディアにした人」。 それまで一部の富裕層のものだった風俗描写が、 江戸の町人が数十文で手にできる印刷物になったこと — この変換が師宣の最大の功績。

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師宣の系譜から独立し、 歌舞伎役者絵というジャンルを 100 年以上独占していく画派がある。 それが鳥居派。 初代 鳥居清元・鳥居清信から幕末の清峰まで、 役者絵を「浮世絵の一大産業」 に育てた集団の歴史を次記事で辿る。

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