歌川国貞と歌川国芳 — 幕末浮世絵の 2 大巨頭と武者絵の時代
1830-1860 年代、 歌川派は浮世絵の 8 割を占める最大画派として君臨した。 歌川国貞 (三代豊国、 1786-1865) は美人画・役者絵で圧倒的な量産、 歌川国芳 (1798-1861) は武者絵・妖怪絵・戯画で幕府批判を含む革新を続けた。 対照的な 2 人と、 幕末の社会不安を映した武者絵の時代を辿る。
歌川派 — 幕末浮世絵の巨大画派
歌川派 (うたがわは) は、 江戸後期から幕末にかけての最大の浮世絵画派。 開祖 歌川豊春 (とよはる、 1735-1814) から始まり、 弟子筋が数百人に達し、 幕末には江戸の浮世絵の 8 割以上を歌川派が制作していた。
主要な系譜:
- 初代豊国 (とよくに、 1769-1825) — 豊春の弟子、 役者絵で名を成す
- 二代豊国 — 短期間
- 国貞 (くにさだ、 1786-1865) = のちの三代豊国
- 国芳 (くによし、 1798-1861)
- 広重 (ひろしげ、 1797-1858) — 前記事で扱った風景画
- 国政・国久・国輝らの弟子筋
国貞と国芳は初代豊国の弟子として同門。 だが作風は正反対の道を進む。
歌川国貞 (1786-1865) — 量産の王
生涯
- 1786 年、 江戸本所五ツ目 (現・江東区) 生まれ
- 父は渡し舟の株主、 比較的裕福な家庭
- 幼名 角田庄五郎 (すみた しょうごろう)
- 1800 年 (15 歳)、 初代歌川豊国に入門
- 1807 年 (22 歳)、 「国貞」 の号で独立
- 1844 年、 三代豊国襲名
- 1865 年 12 月 12 日、 79 歳で死去
圧倒的な生産量
国貞は浮世絵史上最も多作な絵師の一人:
- 生涯の版画数 : 2 万点以上
- 美人画・役者絵・戯作挿絵 が中心
- 版本 (挿絵本) だけで数千冊
- 弟子・工房を組織して 「工房制作」 に近い体制
これは 「クオリティより量」 に傾いたと評価されがちだが、 実際には江戸の浮世絵市場の需要に応えた結果でもある。 幕末、 江戸の版元は毎月新作の版画を出す必要があり、 国貞と工房がその主力を担った。
作風 — 美人画と役者絵
国貞の得意分野:
1. 美人画
- 歌麿以後の大首絵の系譜を継ぐ
- 顎が細く、 目が細いの当世風美人
- 化粧・髪型・着物の細部描写が精緻
- 雪景色・花見・月見などの季節絵
2. 役者絵
- 歌舞伎の芝居絵 (三枚続きなど)
- 舞台の場面を大画面で再現
- 役者の似顔は精密
- 顔だけでなく衣装・小道具・背景まで丁寧に描く
代表シリーズ
《美人東海道 (びじん とうかいどう)》 (1830 年代)
広重の《東海道五十三次》 に触発された、 各宿場の女性を主題化したシリーズ。 55 図。 国貞版の東海道。
《源氏後集余情》 (1857-1861)
江戸期の人気小説 《偐紫田舎源氏 (にせむらさき いなかげんじ)》 (柳亭種彦作、 1829-1842) の挿絵から派生した美人画シリーズ。 平安の源氏物語を江戸に翻案した物語で、 国貞の美人画の代表シリーズ。
《大芝居・楽屋楽》 (幕末)
歌舞伎の楽屋 (バックステージ) を描いた稀有なシリーズ。 役者の私生活を描写。
三代豊国の襲名
- 1844 年 (58 歳)、 二代豊国の死去に伴い三代豊国を襲名
- これで歌川派の当主に
- 以後、 豊国 (三代) 名義の作品も多数
現代の学術ではしばしば 「三代豊国 = 国貞」 と表記される。 混乱を避けるため。
歌川国芳 (1798-1861) — 革新の絵師
生涯
- 1798 年、 江戸日本橋の染物屋の子として生まれる
- 幼名 芳三郎 (よしさぶろう)
- 1811 年 (14 歳)、 初代歌川豊国に入門 (国貞と同門)
- 1814 年、 「国芳」 の号で独立
- 若い頃は不遇、 40 歳前後まで大成しない
- 1861 年 4 月 14 日、 65 歳で死去
転機 — 《通俗水滸伝豪傑百八人之一個》 (1827)
- 1827 年 (30 歳)、 版元加賀屋から中国の武侠小説 《水滸伝》 の登場人物 108 人を各 1 枚の武者絵で描くシリーズを刊行
- タイトル: 《通俗水滸伝豪傑百八人之一個》
- 中国の英雄豪傑たちを豪快な武者絵で描く
- 江戸で大ヒット、 国芳は武者絵の第一人者に
このシリーズが国芳の運命を変えた。 30 歳前まで無名だった国芳は、 40 代以降武者絵・怪異絵・戯画の絶対的な存在になる。
作風の 4 つの側面
1. 武者絵
- 豪快な動き、 群像戦闘
- 《水滸伝》 の系譜で、 日本の武将 (源義経・武田信玄・楠木正成) も描く
- 幕末の社会不安を武者絵で表現 (=読者は「英雄が悪政を倒す」 を読み替える)
- 代表作: 《通俗水滸伝》、 《本朝武者鏡》、 《太平記英雄伝》
2. 怪異・妖怪絵
- 《相馬の古内裏 (そうまの ふるだいり)》 (1845 頃) — 平将門の娘瀧夜叉姫が呼び出す骸骨。 三枚続きの巨大な骸骨が現代の目にも異様
- 《東海道五十三対》 — 各宿場に伝わる怪談
- 《木曾街道六十九次》 — 街道と怪異の組み合わせ
3. 戯画・パロディ
- 《源頼光公館土蜘作妖怪図》 (1843) — 表向きは平安の絵、 実は幕府批判の風刺画
- 《みかけハこハゐがとんだいゝ人だ》 — 人の集合体でできた大きな顔の絵。 見かけと中身の対比
- 《魚づくし》 — 魚を擬人化した戯画
- 《猫の当て字》 — 猫で漢字を作る
これらは現代のキャラクター化・パロディ・GIF アニメの先駆と評価される。
4. 洋風画・遠近法の実験
- 国芳は西洋の遠近法を独学で吸収
- 《忠臣蔵十一段目》 シリーズなどで、 西洋風の背景を試す
- 《讃岐院眷属をして為朝を救ふ図》 の海の描写など、 西洋画の影響が明確
猫好きの絵師
国芳は大の猫好きで、 生涯を通じて多くの猫の絵を残した:
- 《猫飼好五十三疋 (みょうかいこう ごじゅうさんびき)》 (1848) — 東海道五十三次を猫でパロディ
- 《猫の当て字》 シリーズ — 猫のポーズで漢字を作る
- 《たとえ尽しの内 (=猫諺尽くし)》 — 猫にまつわる諺
- 自宅で数十匹の猫を飼っていたと伝わる
現代の日本の猫キャラクター文化 (漱石『吾輩は猫である』・招き猫・くまモン等) の一つの源流として、 国芳の猫絵が挙げられる。
弟子筋 — 「国芳門下」
国芳は多くの弟子を育てた:
- 月岡芳年 (よしとし、 1839-1892) — 次記事で詳述、 血みどろ絵と近代絵画
- 落合芳幾 (よしいく) — 芳年と並ぶ幕末絵師
- 河鍋暁斎 (きょうさい) — 明治期の異才
- 歌川芳藤 (よしふじ) — おもちゃ絵の名手
- 歌川芳虎 (よしとら) — 横浜絵
「明治への橋渡し」 としての国芳の門下は、 幕末-明治の絵画・風刺画・新聞挿絵の主要な担い手になる。
国貞 vs 国芳 — 対照的な 2 人
同門 (初代豊国) の 2 大巨頭:
| 要素 | 国貞 | 国芳 |
|---|---|---|
| 生没 | 1786-1865 | 1798-1861 |
| 主ジャンル | 美人画・役者絵 | 武者絵・怪異・戯画 |
| 作風 | 量産・安定 | 革新・実験 |
| 幕府との関係 | 従順 | 風刺・批判 |
| 生前の名声 | 早くから絶大 | 40 歳以降 |
| 弟子筋 | 職人的 | 芳年など革新者 |
| 現代の評価 | 量的な代表者 | 質的な代表者 |
国貞は幕末浮世絵の量的な主流、 国芳は質的な革新者。 この分業で歌川派は江戸の浮世絵市場を支配した。
天保の改革 (1841-1843) と歌川派
天保の改革は幕府の水野忠邦による綱紀粛正政策。 浮世絵にも大きな影響:
禁令
- 1842 年、 遊女・役者の実名を絵に記載することを禁止
- 芝居のセリフ・場面の再現を禁じる指示
- 豪華な錦絵 (雲母摺・15 色摺など) の禁止
これで役者絵・美人画の版元・絵師は打撃を受ける。 国貞・国芳・広重らは対応を迫られる。
絵師たちの回避策
- 役者名を通称・伏字で表記
- 美人画は「町娘」 「風俗」 として一般化
- 武者絵・武術絵 に主題を移す (幕府批判にならないよう表面上は歴史)
- 国芳の《源頼光公館土蜘作妖怪図》 — 表面上は歴史、 実は改革批判
天保の改革は 1843 年に水野忠邦の失脚で終わるが、 この 2 年間で浮世絵市場は縮小、 幕末までの流れを決定づけた。
幕末浮世絵と社会不安
1850-1867 年 (安政-慶応)、 江戸は激動の時代:
- 1853 年、 ペリー来航
- 1854 年、 安政大地震
- 1858 年、 コレラ大流行 (広重も死去)
- 1858-1859 年、 安政の大獄
- 1866 年、 長州征伐
- 1867 年、 大政奉還
歌川派の武者絵・怪異絵は、 これらの社会不安を反映する:
- 武者絵の英雄 = 悪政を倒す象徴 (読者の願望)
- 怪異絵の妖怪 = 得体の知れない外圧・災害の象徴
- 戯画のパロディ = 表立って言えない不満の吐露
浮世絵は幕末の民衆の心情を映すメディアとして機能した。
歌川派の生産量と流通
幕末の江戸で、 歌川派の版画は:
- 月に数百点の新作が刊行される
- 1 枚 12-16 文 (現代の 400-600 円相当) で庶民が購入
- 絵草紙屋・貸本屋で流通
- 地方へも街道を伝って輸送
- 書物 (合巻・草双紙) の挿絵にも
これは現代のマンガ・アニメ産業の江戸版と言える。 歌川派は「大衆娯楽メディア」 の中核だった。
明治維新と歌川派
1868 年の明治維新後、 歌川派は:
- 国貞 (三代豊国) は 1865 年に既に死去
- 国芳 も 1861 年に死去
- 広重 も 1858 年に死去
- 弟子筋の 芳年・芳幾・暁斎 らが明治期に活動継続
- 新聞挿絵・風刺画へジャンル移動
明治以降、 浮世絵版画そのものは急速に衰退する。 だが歌川派の弟子筋は新しいメディア (新聞・雑誌) で生き残る。 次記事の月岡芳年が明治絵画への橋渡しをする。
現代の歌川派の再評価
20 世紀 — 「量産の絵師」 として低評価
20 世紀前半、 学術界は国貞・国芳らを 「北斎・広重に比べて劣る」 と評価。 量産・工房制作・幕末の粗い作品が理由。
21 世紀 — 再評価
- 2011 年、 大英博物館で 《クニヨシ展》 開催 — 世界的に国芳ブーム
- 2015-2020 年、 日本各地で国貞・国芳の展覧会
- 国芳の戯画・猫絵が SNS 時代のキャラクター文化と親和的
- 《相馬の古内裏》 の骸骨、 《みかけハこハゐがとんだいゝ人だ》 の集合体などが現代アート的に再評価
現代の視点では、 幕末浮世絵はキッチュで面白い、 社会風刺と娯楽の融合として、 独自の魅力を持つ。
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歌川派の弟子筋の中でも、 月岡芳年 (よしとし、 1839-1892) は特別な位置を占める。 国芳門下として幕末に武者絵・血みどろ絵を描き、 明治維新後は新聞挿絵・歴史画へと転身、 明治絵画の最初の巨匠となる。 「浮世絵の最後」 と「近代日本画の最初」 を架橋した芳年の生涯と、 その代表作 《月百姿》 を、 次記事で辿る。